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農村が造られていた。
こうした平等化の中から、さらに反作用として、特徴のあるわが町わが村を作らなくては、農村部はますます魅力に欠け、大都会への人口流失は避けられないのではないかという考えが助長されてきた。
そのためには、村おこし町おこしは単に道路を造り橋を架け、文化ホールの建物を設けるハードだけではなく、そこに「人」がいるソフトの面も興す必要があることが漸く認識され始めた。
当然のようにわが村わが町の文化が見直されなくてはならなかったが、すでに戦後半世紀の歴史の中で農村の人々に深く浸透していた中央志向は、東京と同じ文化を楽しむにはどうすればよいか、いかにして東京の文化を呼び、さらにはテレビに出演している人にわがホールに登場してもらうことに短絡した。
どこの町にも○○銀座が生れ、少し古い町並みがあると、小京都を名乗った。個性化の必要を考えながらも、手っ取り早く大都会依存の慣習に頼り勝ちであった。
しかし、徐々にではあったが、わが村わが町固有の文化の再発掘、あるいは現在地域が置かれている状況を踏まえて、新しい文化を創造してみようとする二つの方向のどちらか一方または双方を選択することによって、地域づくりを行う町村も現れ始めた。
そして、事実村おこし町おこしに成功し、それが観光や経済活動に結びついて発展した町村も出てきた。
その一方では、言ってみれば都会のプロダクションにすべてを依頼して、1回だけのイベントを行って、後に何も残らなかったところもあり、プロダクションの絶好の餌食とされた町村や催し物も少なくなかった。
また、現在でもどこに地域おこしの手掛りを探ればよいのかに困迷している町村も多い。
そこで当委員会は、これまでに一応の成功を収めた過疎の町村の文化を基盤とした村づくり町づくりの実態を、実際に現地に調査に行き、これを報告することによって、全国の過疎に悩む市町村に、ヒントを広く提供することを主な目的として設立された。
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